ABA応用行動分析コラム33は「友達を下に見ることを辞めた日ー過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルール」というタイトルで書いていきます
最後にスクールカーストについて私が考えていたことがABAでどのように解釈できるのかについても書いて行きましょう
学生時代、特に中学生、高校生のころは学校の中で影響力の強い人、影響力の弱い人が存在していたように思います。
影響力の強い人は友達が多かったり、発言力が大きかったりしてとても楽しそうに過ごしているように見えましたし、
影響力の弱い人は比較的友達の数は少なかったり発言しても周囲から受け入れてもらえない(そもそも発言の機会が無いことも多々)ことも多かった印象です。
私が中学、高校のころというのはもう10年以上前ですから、そのころと今の時代は少し違うかもしれません。
当時、影響力の強い人の方が異性にもモテたように感じます。
鈴木 翔・本田 由紀 (2012) は、
あの子は「高い」子であの子は「低い」子。あの子は「上」で、あの子は「下」。あるいは「イケてる」「イケてない」なんて言葉でもかまいません。
学校生活を過ごす中で、人間関係の「地位の差」のようなものを感じたことはなかったでしょうか?
と述べ、
鈴木 翔他 (2012) は同学年の児童や生徒の間で共有されている「地位の差」を、本書ではスクールカーストと呼ぶと言って書籍を書いています。
私も学生時代に鈴木 翔他 (2012)が述べているようなクラスや学年の中にある「地位の差」を感じたことがありますし、みなさんもあるのではないでしょうか?
投票で決めたわけでも無いのに勝手に空気感で出来上がる不思議なものでしたね
今回はそのようなスクールカーストのある中で私自身が当時たどり着いて自分自身では良かったなと思える考え方を今回はご紹介しようと思います
当時の友達にもほとんど話したことがないので、今それを友達に話したら「お前そんなこと考えてたんか?」と、もしかすると驚かれるかもしれません。
スクールカーストの渦中、私の立ち位置は?
私は中学校は共学で公立、高校は男子校で私立でした。
そのため私の高校生活、学内に異性はほとんど登場しません(笑涙)!
「ほとんど」と言ったのは、私が2年生のころから特進クラスに女子が入ってくることが決まっていましたので、学内にごく少数の女子はいました。
ただほとんど学生生活内で絡むことは無かったためゴリゴリの男だけの集団の中で高校生活を過ごしていたと思ってください。
私の立ち位置としてはいつも一緒にいる友達はスクールカースト上位の人が多かったです。
私自身は本ブログページで書いて行く内容ですがほとんどスクールカーストを気にしないで過ごしていましたので、あまり気にしませんでしたが、周りの友達のカーストは高かったと思います。
異性が学校に居た中学生の頃、周りの友達はかなりモテていました。
ある日5人くらいで友達の家で遊んでいたとき数人の女子がチャイムを鳴らして訪ねてきて、私ともう一人を除いた3人が呼び出されることがあって、何があったか聞いたら3人が別々の女子にそれぞれ告白されるという集団告白イベントがあったときは驚きました(あとちょっとショックでした)。
私も中学時代彼女はいましたが、周りの友達と比べるとモテていたとは思いません。
今もですけど、昔から私は簡単なミスが多かったり(寝坊とか忘れ物)、ヘマをすることが多かったり、ちょっと変なことを言ったりすることもあってからかわれることも多かったので、
周囲の友達はカーストが高かったと思いますが私自身はあまり自分自身のカーストが高いなぁと思ったことはありません。
楽しかったですが、からかわれたときは「嫌だなぁ」と思うこともありました。
良く言えば親しみやすい感じ?(笑)
あとスクールカースト最上位の人から目をつけられて嫌なことをされたこともあります。
例えば高校のとき多分そのことが原因で私は卒業旅行に誘われませんでした(これは当時めちゃくちゃ嫌な気持ちになりました)。
ただあまり「あいつよりも上に行ってやろう」とか、そういった気持ちは抱きませんでした。
総合的に学生時代楽しかったですし、今も当時の友達との付き合いが続いています。
楽しかった学生時代、という自己評価です。
その後の大学時代、大学院時代はやりたい心理学の勉強も始まってめっちゃくちゃに楽しかったです。
ただ本ブログページは中学校、高校のときの話とします。
当時多分、私が周囲の友達と違ったのは、私はいろいろなグループのいろいろな人と幅広く仲が良かったと言う点でしょう。
正直、友達は多かった方だと思います。
過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルール
別に誰かが決めたわけでも無いのに今思えば不思議なものですね。
私が過ごした当時の環境は「活動的」「面白い」「喧嘩が強そうで気が荒い」「スポーツができる」傾向の人がスクールカースト上位のイメージでした。
私自身は「喧嘩は弱そう」「スポーツはできない」というタイプ
周りから見ると「活動的」に見えたと思いますが、自己評価としてはあまりそんなことはない、ただ話はちょっと面白くできたと思います
さて、上で簡単に私の学生時代の立ち位置について書きましたが、私はいろいろなグループのいろいろな人と付き合ってきました。
当時スクールカースト上位の人はカースト下位グループの人と話をするときは少し雑に付き合っているように思いました。
逆にスクールカースト下位の人は上位の人に話しかけるとき少し気まずそうに緊張しているように思いました。
最初は意図的でしたが、私はある日から、多分自分よりもスクールカースト下位の人に対して丁寧に、みんなと同じように接しようという態度で生活をするように試み出します。
クラスの誰にも冷たく当たることもなく、それがクラスで嫌われている人であっても自分が好きだったら周りから「なんであいつと仲良くするん?」などと言われてもお話をするし、一緒に遊んだりしていました。
「友達に対してくらいは好き嫌いの判断は周りの評価でなく自分でする」という信念の下、動き出します。
そのように試み出したきっかけが何だったかはっきりとは覚えてないのですが、友達に対して気を使うのがめんどくさくなった時期があったからです。
当時私は1つの仮説を持ちます。当時私が持った仮説は、
(多分)自分よりもスクールカースト下位の人に対して丁寧に態度を変えずに生活をすることで「下」を無くせば、比較が無くなり、「上」というものも無くなるんじゃないか?
という仮説で、それを証明するよう、そのように行動することを試みました。
これが過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルールです
学生時代というのは不思議なもので、グループ内の誰かがある日いきなり嫌われたりします。
大人になった今は「理不尽だなぁ」と思いますが、当時はそのような出来事も日常であることだと受け入れていました。
グループ内の最上位の人とぶつかってしまって、その最上位の人が「あいつ、調子に乗っている」ということをグループ内で風潮すると、グループ全体でその人をハブにする流れが生まれるのです。
するとそのハブられた人はある日を境に突然グループ内で冷たくされ一人で活動することが増えていきます。
ハブられた人も多分、自分の境遇には気がついていたのでしょう。
見ていると、自発的にグループ内の人に関わって行く頻度が少なくなっていったように思いました。
ハブられた人も泣いたりはしませんが、私から見たら背中はとても寂しそうでした。
私はいろいろなグループに属していましたので、そのグループ内でそのようなハブにする流れがあることにも気が付きます。
でも私は「俺があいつ好きやからええねん(友達は自分で決める)」という考えの下、グループの空気感を無視してそのハブられた人と一緒に話したり、遊んだり、一緒に帰ったりしていました。
グループ内最上位の人からしたら面白く無い行動でしょう。
「あいつ何で仲良くしてるねん」と言った感じ?
あまり気にしませんでした
逆にスクールカーストが高すぎて周りの友達と深く付き合えないというタイプの人もいました。
このタイプの人は周りから見て多分「怖すぎる」ように見えていたんだと思います。
確かにちょっとヤバそうな雰囲気を持っていて、顔も言うことも怖いし喧嘩も強そうやることもヤバそうと言った感じで、周囲のほとんどの人から気を使われていました。
周囲のほとんどの人から気を使われていることについては本人も多分気がついていたと思います。
ただその人が自分自身で気を遣ってもらうことを望んでいたかどうかでいうと、関わって行く中できっと望んでいなかったんじゃないかなとも思いました。
彼なりに人間関係で悩んでいたのかもしれません。
例えば私はあまり気を使わないタイプだったため、高校の頃その子と初めて一緒のクラスになったとき、遠慮なくズバズバ話しかけて行くし、向こうをイジることもしていました。
なんだか少し嬉しそうにしていた気がします。
そして私たちは親交を深めて行くのですが、ある日、学校帰りだったか夜2人で帰っているとき自転車を降りてちょっと話をしていました。
そのとき「気を使わずに付き合ってくれて嬉しい」というようなことを言われたことを記憶しています。
ちょっと小話、高校時代に救われた話
私は高校時代、かなりガチ目の野球部に所属していました。
スポーツができないのに成り行きで強豪校の野球部に入ることになってしまったんですね。
私ともう一人以外は特待生かセレクション組の部員ばかり、ガチガチの戦闘集団(笑)
例えば練習を休むと部員から嫌な目で見られます。
私は体調不良などで練習に出ない日が何日か続いたことがありました。
何故かわかりませんがそのようなことがあると部員からの風当たりが悪くなります。
態度が冷たくなったり、そう感じるのです。
そして日曜日、まだ明るいうちに練習が終わった日、私は特に仲の良いTくんと一緒にグラウンドに座り「俺練習、けっこう休んだからちょっと気まずいわ」と少ししょげながら話していました。
そのグラウンドの場所は部員が帰るときに通る位置で、私とTくんが話しているときに「じゃあなー、バイバイ」、「またなー」と言いながら何人か帰宅していきます。
私はTくんとその場所に座っていろいろな話をしていたのですが、私はしょげ気味。
するとTくんが「En、気づいてるか?みんな帰って行くとき、Enに話しかけてるやん」と言ってきました。
確かに・・・帰りのあいさつをするときTくんにもあいさつしますが私にも笑顔であいさつをしたり簡単な雑談をする部員ばかりでした。
Tくんは続けて「だから気にしすぎやって。大丈夫、みんなお前のこと好きやと思うで」と言ってくれました。
めちゃくちゃ励みになりました!
私は元気回復!思い込みすぎやったんかな、と考え直すことができました。
過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルールをABAで解釈する
本ブログは「ABA:応用行動分析コラム」なので、話を戻して最後に簡単に「過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルール」をABAで説明していきたいと思います。
本ブログで書いてきた過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルールは、
(多分)自分よりもスクールカースト下位の人に対して丁寧に態度を変えずに生活をすることで「下」を無くせば、比較が無くなり、「上」というものも無くなる
というものでした。
この仮説は個人的には上手く自分自身には機能したと思っています
ある程度に学生時代を快適に過ごすことができたのはこの考え方を持っていたことが大きかったという印象です
以上のルールについてABAの関係フレーム理論(RFT:Relational Frame Theory)で説明することが可能かもしれません。
関係フレーム理論(RFT)は主には言語による学習(ルールなど)について理論立てたもので、
Jonas Ramnerö & Niklas Törneke (2008) によればその中心的な能力は「いろいろな刺激に関連付けること」です。
そしてそれはその刺激間にある恣意的(しいてき)に確立された関係(Arbitrarily Established Relations)に依存します。
「恣意的」という言葉は理論的に筋道が通っていなくとも、自分自身で意味を関連付けてしまうことと捉えてください。
恣意的の解説についてD. Dahl, JoAnne C・Jennifer C. Plumb・Ian Stewart・Tobias Lundgren (2009) を引用します。
言葉が話せる人間は対象物間の物理的関係だけでなく、どのような関係かを決める文脈的手掛かり(Contextual Cues)に基づいて対象物を関連づけるという、他の動物にはないさらなる反応関係を示すということだ
例えば言葉が話せる子どもに架空の人物であるAさんとBさんについて「AさんはBさんよりも背が高い」と教えたとしよう
その後、背が低いのどちらかと子どもに尋ねたら、それ以上何も教えなくても「Bさん」と答えるだろう
この答えは物理的関係というよりも「より高い」や「より低い」という文脈的手掛かりに基づいている
教えられた関係性は何らかの物理的関係性に基づく必要はなく、どのような物理特性を持っていても恣意的にいかなる刺激にも当てはめることができるのだ
したがって、この種の反応は、恣意的に適用可能な関係反応と呼ばれる
以上の解説を踏まえて過去の私が学生時代持っていたスクールカーストに対するルールについて考察をして行くとすれば?
もし私がスクールカーストを気にして行動する生活をずっと突き進んでいっていたとしましょう。
これはスクールカーストを意識して生活するルールが強化されるということです。
するとそのルールを強く受けるため、そのルールの下で行う行動が強化されます。
そのような強化を受けながら毎日を過ごすとなると、もしかすると自身のスクールカーストを上げる(もしくは下げないための)行動に没頭する毎日だったかもしれません。
それは私にとっては非常に面倒くさいです。
私は(最初は)意識的に「スクールカーストの上下」という恣意的なルールに対して、「下を無くす」ということで相対的に「上」という意識も弱めることができたのだと思います。
そのため「上下」について意識することが無くなり、あまりカーストを意識しないことにスムースに移行できたのでしょう。
学生時代にそれが体験できて良かったなと思うことが多いです。
強すぎるルールは生活を縛ってしまうでしょう。
例えば「仕事で同僚よりも成果を出すべきだ、そうしなければいけない」とか、「自分の子どもは誰よりも幸せにするべきだ、そうしなければいけない」などもそのような強すぎるルールになってしまうと思います。
特に周囲との比較をすることで苦しくなってしまうこともあるかもしれません。
さいごに
本ブログページでは私自身が過去に持っていた学生時代のスクールカースト、そして友達に足しいての考え方、ルールをご紹介してきました。
多感な中学校、高校時代。
異性とのお付き合いが始まったり、街に出かけて遊ぶことが始まったり、自分の将来「夢」について真剣に考える時間が始まる時代だったり、
とても特別な時代です。
そのような時代、私自身はここで書いた内容のルールに救われたと思っています。
当時ABA、関係フレーム理論は知らなかったですが楽に過ごせました。
あまり強すぎるルール、しがらみは少ない方が良いと私自身は思っていて、ある程度の柔軟性があった方がストレスは少なく過ごせるように思います。
もしあなたが今、強すぎるルールに縛られているとすれば?
少し柔軟に考えてみるということを意識してみてはいかがでしょうか?
例えば本ブログページで引き合いに出した「仕事で同僚よりも成果を出すべきだ、そうしなければいけない」とか、
「自分の子どもは誰よりも幸せにするべきだ、そうしなければいけない」などのルールに縛られているとすれば?
「仕事で同僚よりも成果を出すべきだ、そうしなければいけない」の場合は?
どこかで自分よりも仕事ができない人を「下」に見ているかもしれません。
でもそうではなくて、その人にも丁寧に優しく接する。
その人と接する時間に価値を感じるように考える。
「自分の子どもは誰よりも幸せにするべきだ、そうしなければいけない」の場合は?
どこかで自分の子どもよりも不幸だと感じたお子様の親御様を「下」に見ているかもしれません。
でもそうではなくて、その人にも丁寧に優しく接する。
その人と接する時間に価値を感じるように考える。
そのようにして自分自身のルールを弱め、柔軟性を持ってみるのはいかがでしょう?
【参考文献】
・ D. Dahl, JoAnne C・Jennifer C. Plumb・Ian Stewart・Tobias Lundgren (2009) The Art & Science of Valuing in Psychotherapy: Helping Clients Discover, Explore, and Commit to Valued Action Using Acceptance and Commitment Therapy 【監訳:熊野 宏昭・大月 友・土井 理美・嶋 大樹 (2020)ACTにおける価値とは クライアントの価値に基づく行動を支援するためのセラピストガイド 星和書店】
・ Jonas Ramnerö & Niklas Törneke (2008)The ABCs of HUMAN BEHAVIOR:BEHAVIORAL PRINCIPLES FOR THE PRACTICING CLINICIAN 【邦訳: 松見純子 (2009)臨床行動分析のABC 日本評論社】
・ 鈴木 翔・【解説】本田 由紀 (2012) 教室内カースト 光文社新書