私は地元が東京ではありません
大学から地元を離れ始めて就職した地は地元ではなく地方の政令指定都市でした
その後、東京に出てきて仕事をはじめます。
今年、私にとって東京生活10年となりました。
特に「記念すべき」と、いうような想いでもありませんが、時の流れは早いもので「もう10年経ったのか」という気持ちです。
私は大学から本を読むことが増えていきました。
でも高校生まではほとんど文字ばかりの本を読んだことはありませんでした。
私にはほとんど趣味がありません。
そして、そのことを少し嫌に思っています。
だから趣味を探そうとするモチベーションがあるのです。
その一環で、東京に来て入浴しながらできる活動を探していたタイミングがあったことを覚えています。
これは気まぐれだったと思うのですが、近くのブックオフで手に取った1冊、太宰治の「晩年」 (1947) を手に取りました。
収録されている「葉」というものがとても面白かったことを覚えています。
私はこの「葉」が好きでした。
これは「晩年」の最初に収録されています。
「切り抜き動画」みたいな(違うか?)感じで構成されていて、物語を通して正確な意味はわかりませんでした。
変わり代わるエピソード。
太宰治の真似事で2022年ブログを終えたいと思います
今回、参考文献は上の1冊だけ。
ではではー、本ブログが本年ラストですが、2023年もどうぞよろしくお願いいたします!
太宰治のファンからは「なんだそりゃ」と言われるかもしれませんが、そこはご愛嬌。
太宰治「晩年ー葉」リファレンス、ABA
ABAはどうやら行動の科学と言われているらしい
研究には2つあって、1つはグループ比較研究、もう一つは少ない事例を追っていくタイプ、本来ABAは少ない事例を追っていくタイプが本流なんだけれども、
自閉症児へのABA研究を広めたのはグループ比較研究だった
どんな親子でも、親子関係は大切だよ
原因を「こころ」に帰属することは、あまり問題解決に寄与しない
死人ができないことは行動じゃない!と考えるのはどうだろう?
これは、単純にその方が都合が良いことが多いからという理由
三項随伴生で行動をなぜ捉えるか?
三項随伴生が世界に存在するからじゃなくて、それが都合が良いからだよ
ただ、それだけなの
そういう単位で分析することが、ただ都合がいいだけ
私は「すごく便利」とそう思っているけど、あなたはどう?
何か原因を探るとき、行動のあとを観察してみて
でも行動の前を観察することも結構大切だったりする
そうして行動の前後を観察した事例を集める
すると見えてくる「何か」があるよ
「何か」を発見したと信じたとき、その「何か」が正しいかどうかを検証して行こう
人間の記憶は結構曖昧だから、データにしてあとから見返したら「ありゃ?」って思うことがある
人間の行動変容は右肩上がりで直線にはならないから、昨日よりも良い日もあるし、昨日よりも悪い日もあるから、だからある程度は長いスパンで観察するべきである
少し長い期間で見て良くなっている、それが自然なんじゃないか
自分が「今、何をしている(どんな刺激を出している)?」を正しく観察できる能力は、私はABAを行うときにとても大切な能力だと思っています
それは、自分の行っていることを正しく「弁別」できる能力
「できなかった」という事象の原因は考えるとパターンに分けて捉えることができると信じている
もし相手が言葉を扱えないなら、どうしてその人が知っていることを証明できるか、1つのヒントは確率的に知っているだろうと捉えることだろう
そして確率で知ってる、知らないを考えるなら2分の1は少しシビアに
行動を型でなく、機能で考える
自分自身でコントロールすることが難しいタイプの行動を知って、ある程度あきらめるところはあきらめるのも個人的には良いんじゃないの?と思います
それでも必要なとき、恐怖、不安、嫌悪感とかにはエクスポージャー
「興奮しているから奇声を上げたのか?」それとも「奇声を上げたから興奮していると解釈したのか?」
本質は如何に?
因果関係、関数関係に注目しよう
何のときにそうで、何のときはそうじゃないのか、弁別して考えよう
それが「正しく理解する」能力だと思う
行動したあとで自分にとって良いなと思ったり、安心したりすればそりゃその行動は多くなるだろう
そしてその行動が多くなる、強化されるためには即時性とか量とか、いろいろなものが影響するんだな
自分にとって良いなと思ったり、安心したりすればそりゃその行動は多くなる「それは当たり前だろ」と思う?
それを科学的に説明したのが「強化の原理」
理論的に説明できたというのが尊かったんだろう
消去と罰は違う
罰は強烈だけど、伴う副次的な効果が痛い
子どもが発する消去バーストと親が受ける負の強化のによって悪循環が生まれる
般化も良いものと悪いものがあるよ
問題行動も「学習」の中で般化して行くことは覚えておこう
できないことができるようになるために助けて(プロンプト)もらうのは変じゃないでしょ?
確立操作は目には見えない、見えにくい?
「強化子って何?」ってテーマでプレマックの原理とか反応遮断化理論とか均衡化理論が生まれたっていうのはロマンある
解決せよ「循環論」!確立操作、面白いよ
セルフコントロール研究、選択行動の理論と機能分析の理論をイコールで考えると正しく分析ができないと思っている
必要であれば機能分析の理論にセルフコントロール研究、選択行動の理論で時間を織り込む(もしくは逆でもOK)と考えています
行動は鎖のようにつながって単位を成す
「行動は連鎖するんだ」はあなたの口癖でした
スモールステップの気持ちで課題分析してシェイピングする
環境が興味に溢れていて豊穣であれば問題行動は少なくなる
診断とABAは少し相性が悪いかもしれない
一回試してみて難しければ別の手段でやれば良い
それを私はケースフォーミュレーションによる仮説検証と思っている
これは建設的な普通の考えじゃないかな?
「試行錯誤」もこれの1つのように思う
「プロンプト+強化法」のあとに、「プロンプトフェイディング+強化子のリダクション」
機会利用型の療育も日常の中で取り入れて行こう
DTTも、できることをやって行こう
私たちの1日24時間しかない縛りの中で・・・、
不適切な行動を減らすとき、不適切な行動だけに目を向けないように
適切な行動を増やしていけば不適切な行動は相対的に減少して行く
私たちの1日は良くも悪くも24時間しかない・・・、
ABAは科学的と言われている
発達に遅れのあるお子様の親は、自分自身が歩んできた道と違う道をお子様が歩む可能性があると思うから、不安なの?
親の方が子どもよりも先に死ぬだろう
自然なこと
だから、不安だろう
そういった人たちに寄り添うことは、私のやりたいことの1つ
太宰 治 (1947) は「葉」を以下のように締めくくった。
よい仕事をしたあとで
一杯のお茶をすする
お茶のあぶくに
きれいな私の顔が
いくつもいくつも
うつっているのさ
どうにか、なる
【参考文献】
太宰 治 (1947) 晩年 新潮社