ABA応用行動分析コラム38は「自分の能力を上げる?適応させる?機械主義と機能的文脈主義から社会適用について考察」というタイトルで書いていきます
機械主義と機能的文脈主義という言葉があるのですが、機械主義と機能的文脈主義について詳しくは、
「(ABA自閉症療育の基礎86)ABAの考え方、機能的文脈主義と機械主義の比較ー機能的文脈主義をABA自閉症療育に生かす、療育指針(https://en-tomo.com/2021/05/07/aba-function-contextualism-mechanism/)」、
をご覧ください。
本ブログページでは最初に機械主義と機能的文脈主義について簡単に解説を行い、
社会の中で何かを実行して行くとき、自分の能力を上げるべきか、自分の能力を応用して適応するべきか、これらについて機械主義と機能的文脈主義から考察して行きましょう。
機械主義と機能的文脈主義の簡易解説
最初に機械主義と機能的文脈主義の簡易解説を行っていきます。
最初に書いておきますが私がブログで扱っているABA(応用行動分析学)は「機能的文脈主義」の立場です。
「機会主義」は「機械論」とも呼ばれます。
このことについて少し長くなってしまいますがJoAnn C. Dahl・Jennifer C. Plumb・Ian Stewart・Tobias Lundgren (2009) の一節を中略も挟んで引用しましょう。
JoAnn C. Dahl他 (2009) は「機械論」という項の中で、
機械論者にとって、世界とは機械がパーツやエネルギーを作り上げているようなものであり、科学者の仕事は機械の構成要素を分析し、そのパーツがどのように働きあっているかを説明することである
ーー(中略)ーー
心理療法におけるこのアプローチの例は、従来の認知療法である。認知療法は、認知行動療法(CBT)のメインストリームに対して基礎科学的背景を提供している
従来のCBTの文脈における科学者の仕事は、思考と行動の単位をその構成要素ごとに分類し、それらのパーツが他のパーツにどのようにして影響を与えているかを理解することである
ーー(中略)ーー
セラピストは非機能的思考と信念いよって作動するマインドを分析し、それらの思考と信念を修正したり。置き換えたりすることで本質的にマインドを回復させることを目的としている
ーー(中略)ーー
介入では、不適応的な中核的信念と、中核的信念から生じる不合理な思考の修正が求められる。そうして、ポジティブな気分と適応的な行動を促進させるのである
と書いています。
また機械主義についてSteven C. Hayes・Kirk D. Strosahl・Kelly G. Wilson (2012) はねじ巻き時計を例にして説明をしました。
Steven C. Hayes他 (2012) は、ねじ巻き時計はさまざまな構成要素(パーツ)でできており、それらの要素を設計図のような上位の計画に従って構築する必要があり、時計が機能するためにはねじを巻かなければいけない。
このような要素で世界ができていると仮定した場合「このシステムを機能させているのはどの要素とどの力であるか?」という問いが問題解決に必要となる、このような考え方が機械主義であると述べました。
JoAnn C. Dahl他 (2009) やSteven C. Hayes他 (2012) が述べている機械主義を考察すると、
何か心理的に問題がある、悩みがある場合、それは何か不備が起こっているために生じており、
その場合の心理的支援とは不備を修正することで対応する支援と考えることができるでしょう。
つまり「正常な心の状態」があり、現在何か悩みがあるのは正常ではない欠陥が招いている、と考えるということです。
このように考えること自体が悪いわけではありません。
例えば上で書いた認知行動療法(CBT)について下山 晴彦 (2007) は世界的に見るならばメンタルヘルスも分野においてもっとも有効な介入方法として幅広く用いられていると述べています。
下山 晴彦 (2007) を引用で使用しましたが、CBTは実際に多くのエビデンスを持っている心理療法です。
上で私がブログで扱っているABA(応用行動分析学)は「機能的文脈主義」の立場ですと書きましたが、
対して機能的文脈主義とはどういったものでしょうか?
谷 晋二 (2020) は機能的文脈主義について、
物事の良し悪しは、つねに状況(文脈)によって変化し、その働き(機能)によって決められるというのが機能的文脈主義の立場であると述べています。
また、Patricia A. Bach・Daniel J. Moran (2008) は機能的文脈主義とは機械主義とはまったく異なる、世界(そして行動)に対する考え方である
このような人間行動の捉え方は、文化的に逸脱したものである
というのも、多くの一般的な人間行動の捉え方は、機械主義によっているからである
と述べました。
他のブログページでも引用しましたが、機能的文脈主義についてRuss Harris (2009) が面白いエピソードをご紹介しています。
「機能的文脈主義と3つ脚になった椅子」というエピソードです。
4つ脚の椅子を想像して欲しい
そこに人が座ったら、脚が1本外れてしまった
あなたはこの椅子を「壊れている」「欠陥がある」「傷もの」と表現するだろうか?
「機能不全の椅子」であるとか、さらには「適応不良の椅子」などと呼ぶだろうか?
この質問を数百人のセラピストにしてきたが、全員が上記表現のうち1つには「はい」と答えた
問題なのは「はい。この椅子には不具合や欠陥、不備があります」と即座に回答するとき、文脈が果たすさまざまな役割の重要性が全く考慮されていない、という点だ
では、今度は、このような事態を別の視点から捉えてみよう
この椅子が目的を果たすために非常に効果的に働く状況、つまりこの椅子を最大限に生かせる使い道を、3つ4つ考えて欲しい
「3つ4つ考えて欲しい」という答えとしてRuss Harris (2009) は以下のように答えます。
・ 悪ふざけをするとき
・ 壊れた家具の美術展を開催するとき
・ ピエロの芝居やコメディの脚本を考えるとき
・ 家具制作の授業で、欠陥のあるデザインの例を示すとき
・ バランス感覚、調整力、筋力を鍛えるとき
・ 労災の賠償請求をするため、仕事中ケガをするよう願うとき
「壊れている」、「欠陥がある」、「傷もの」、「機能不全の椅子」、「適応不良の椅子」であったものが、特定の状況(文脈)の中では適応的(機能的)に働くのです。
このような文脈の中でいかに機能させて行くか、という視点で心理的支援を行っていく考え方が機能的文脈主義であり、ABAのベースとなっています。
さて、機械主義と機能的文脈主義の簡易解説も終わったところで(※ 少し長くなってしまいましたが)、
本ブログのテーマ、
自分の能力を上げる?適応させる?機械主義と機能的文脈主義というテーマで社会適用について考察して行くこととしましょう。
過去の私は機械主義的、現在の私は機能的文脈主義的な生き方の見方へ徐々に変化している
項目タイトルにあるように過去の私は機械主義的な生き方であり、現在の私は機能的文脈主義的な生き方の見方へと徐々に変化してきているように感じています。
これまでご紹介をしてきたように「機械主義」とは自分に足りない何か欠陥を補完することを目的としたモデルであったとすれば、私はABAについてこれまでたくさん勉強をしてきました。
これはABAを通していろいろな人に支援をしたいなと思ってから、まずその理想を叶えるためには知識欠陥という状態を解決する必要があると考えたためです。
20代はほとんど、このことに時間を費やしてきたように思います。
経験値の蓄積についてもそうです。
これまでかなりの臨床時間を持つこともでき、30歳の頃には総臨床時間1万時間は超えていました。
ABAを学ぶ過程において、まず知識・経験不足という欠陥を解決する必要性があったため私は機械主義的な考え方で欠陥を埋めるため勉強、そして実践を行ってきました
今、慢心をしているというわけではありませんが、ある程度に力もついてきたなと思った時期、30代に入ってからはABAについて「機能的文脈主義的」な立場で物事を考えるようになってきました。
機能的文脈主義が例え壊れた椅子であったとしても状況(文脈)によっては機能的に働くことができる、という立場なのであれば私が未熟(欠陥がある)であったとしても、
私自身は今自分ができることを通して、自分自身を社会に機能的に適応して行きたいという考えも持つようになっています。
だからブログを書いていますし、他の活動も広げていければと考えているところです。
ABA自閉症療育、ABAについてまだ未熟な点はあるものの、私のできるABAが社会で機能的に働くよう、ここまで学んできた内容を必要としている人に伝えたいという気持ちで頑張っています。
ABAを用いた直接対人支援以外の活動に対してはどうか?
ABAとは少し畑は違うのですが、例えばアプリ作成などにも興味があるものの、アプリ作成はプログラミングの知識がなければ難しいかもしれません。
私はABAをベースとした自閉症や発達に遅れのあるお子様向けの療育アプリが作りたいです。
昔の自分であれば「プログラミングの知識が必須で、それがないと作成できない」と考え込んでいたかもしれませんが、今は少し違う視点も持ち合わせてきました。
私はある程度は社交性があると思いますので、私のことを好きになってくれる人もいると信じています。
もしかすると私と誰かがWin-Winの関係で力を合わせて目的を達成できるかもしれません。
これはアプリを作成したいと思うものの、プログラミングの知識がないという欠陥を補うという機械主義的な考え方と少し違うように思います。
私自身の持つコミュニケーションスキルという資源を文脈に織り込んでアプリ開発という目的(機能)を達成しようというアプローチです。
私は20代の頃、別のブログを作成しました。
この頃に作ったブログも、もちろんABA自閉症療育ブログです(笑)
今はワードプレスというものを使ってブログを書いていますが、当時のブログは結果的にはHTMLとCSSというコードを使って作成したのですが、当時ブログ作成はやったことがなくて素人、何から始めて良いかも分かりませんでした。
当時、独学でやると決めて本を3冊ほど読みながら作成を試みたのですがどうしても行き詰まってしまった夜、17時くらいだったかな?
電車に乗って新宿に行きました。
当時、お金がなかったのでスクールに通うという選択肢は頭にはありません。
借金をしてスクールに通うということもあったのでしょうが、私が取った行動はとあるITの専門学校から帰宅するために出てくる学生に話しかけまくるという手段でした。
「俺、ブログ作りたいから、時給を払うから俺にブログの作り方を教えてくれ!」
何人にも何人にも声をかけました。
するとブログが専門ではないものの、ゲーム作りを学んでいる学生が足を止めてくれました。
その後、そのゲーム作りを学んでいる学生さんから1人、詳しい人を紹介してもらい、私はほとんど毎週、その学生さんから喫茶店ルノアールで授業を受け、ブログを作成することができました。
これは、自分がそのときに持っていた社会性のスキルを使って文脈に適合し、目的(機能)を達成するという点では機能的文脈主義的な問題解決だったと感じています。
しかし実際に機能的文脈主義的な問題解決によって過去私が自分自身で作ったブログはその後、当然のように独学で欠陥を埋めなければいけない時期がきて、いろいろと試行錯誤をすることもありました。
具体的には例えばスマホやタブレットが台頭してきたこともあって、パソコンで表示するときと、スマホ、タブレットの画面サイズで表示するときで表示方法を変え各媒体に合った表示方法にするようコードを書き換えなければいけませんでした。
いろいろとGoogle検索して調べたり、デザイン専門の本を買ったり(レスポンシブデザインの本)試行錯誤をしました。
これは私の知識・技術不足という欠陥を補おうとしていたので機械主義的な問題解決です。
「過去の私は機械主義的、現在の私は機能的文脈主義的な生き方へ徐々に変化している」、
私自身はそのような時間の歩みをしているように感じていますが、これは私自身の人生に対しABAを軸として考えた場合、そのように感じるのでしょう。
しかしここまで書いてきた、
過去行ったブログ作成のときのように、自分の既に使用できるスキル(上で言えば新宿で声をかけまくったこと)を始発点として何か始めても(これは、スキルを環境適用させたので機能的文脈主義のやり方)、
知識や技術、経験を蓄積して欠点を補う必要があるという意味では機会主義的な方法で解決を求められるフェイズもやってくる。
客観的に自分の人生を振り返ればそれぞれが大切な役割を持つ時期があるように思いました。
このようにブログを書いている中で自分自身を振り返る時間も良いものです。
本ブログページでは、
「自分の能力を上げる」 = 能力不足という欠陥を産めるという意味を込めて機会主義
「適応させる」 = 今持っている能力で環境(文脈)に適応して目的(機能)達成するという意味を込めて機能的文脈主義
というイメージで本ブログページを書きました。
「機会主義」と「機能的文脈主義」、ABAで語られることのある両テーマを社会適用に落とし込んで考察したとき、どのように当てはめられるかという観点から考えたものとなります
「自分の能力を上げる」ことも「(今持っている能力で)適応させる」ことも社会に適用することは大切ですね。
今回ブログを書くにあたりいろいろとこのテーマについて考えました。
私自身としては今後、これから何かするときどちらの方向性で始めてみようかな、という観点も取り入れて考えることができそうです。
何かをするとき、戦略を立てるときの方向性の参考として今後、個人的には考えて行きたいと思います。
さいごに
本ブログページは「自分の能力を上げる?適応させる?機械主義と機能的文脈主義から社会適用について考察」というタイトルで書いてきました。
私自身は本ブログページを書くにあたって、
「自分の能力を上げる」 = 能力不足という欠陥を産めるという意味を込めて機会主義
「適応させる」 = 今持っている能力で環境(文脈)に適応して目的(機能)達成するという意味を込めて機能的文脈主義
というイメージで本ブログページを書きました。
私自身は今までの人生で「フェイズ」という言葉を用い(人に話すときそういう言葉を使うことが多かった)、意識して生きてきたように思います。
「今はXXXのフェイズだから遊ぶ」、「今はYYYのフェイズだから勉強する」と言った感じです。
社会人になってから今は修行フェイズ、今はフリーランスの出発点として頑張るフェイズ、今は確定申告の勉強をするフェイズ、今年はブログを書くフェイズ、今年は・・・と、何かしら人生のフェイズを区切って意識し、生きてきたように思います。
今回ブログを書いていて、各フェイズで壁にぶち当たったとき「機械主義的」と「機能的文脈主義的」な考え方をケースバイケースで切り変え、問題解決をして行こうと思いました。
今回やってみて、「機械主義的」と「機能的文脈主義的」の区分けをABA以外の文脈で考察したことは楽しかったです。
またこのようにABAを別の何かに当てはめて考察するということもやって行きたいと思いましたので、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
【参考文献】
・ JoAnn C. Dahl・Jennifer C. Plumb・Ian Stewart・Tobias Lundgren (2009) The Art and Science of Valuing in Psychotherapy: Helping Clients Discover, Explore, and Commit to Valued Action Using Acceptance and Commitment Therapy 【邦訳: 熊野 宏昭・大月 友・土井 理美・嶋 大樹 (2020) ACTにおける価値とは クライアントの価値に基づく行動を支援するためのセラピストガイド 星和書店】
・ Patricia A. Bach・Daniel J. Moran (2008) ACT in Practice Case Conceptualization in Acceptance & Commitment Therapy 【邦訳 武藤 崇・吉岡 昌子・石川 健介・熊野 宏昭 (2009) ACT(アクセプタンス&コミットメントセラピー)を実践する 星和書店】
・ Russ Harris (2009)ACT Made Simple: An Easy-To-Read Primer on Acceptance and Commitment Therapy 【邦訳: 武藤 崇・岩渕 デボラ・本多 篤・寺田 久美子・川島 寛子 (2012)よくわかるACT アクセプタンス&コミットメント・セラピー 星和書店】
・ 下山 晴彦【編】 (2007) 認知行動療法 理論から実践的活用まで 金剛出版
・ Steven C. Hayes・Kirk D. Strosahl・Kelly G. Wilson (2012) Acceptance and Commitment Therapy The Process and Practice of Mindful Change 【邦訳: 武藤 崇・三田村 仰・大月 友 (2014) アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)第2版 星和書店】
・ 谷 晋二【編著】 (2020) 言語と行動の心理学 行動分析学を学ぶ 金剛出版