ABA応用行動分析コラム47は「人生は並列していろいろなことが起きているーこれはこれ、それはそれー物事を弁別的に考える」というタイトルで書いていきます
最近私が思っていることです。
最近そうなった、というよりは実はずっと前からそうだったことを最近、意識しだした。
という言い方が正しいかもしれません。
さて、最近私が思っていることを書いて行く前に少し前置きとして以下のようなことを考えてみて欲しいです。
例えば何か調子の良く無いネガティブなイベントが起こったとき、気分が沈んでしまってやる気が起きなくなったり、とても不安になってしまうこととか、ないでしょうか?
例えば友達と喧嘩してしまったりとかすると「本当、最悪!」と思って気分が全体的に沈んでしまったり、
必要な資格の試験が不合格という結果だったとき「これからどうしよう」ととても不安になってしまう。
このようなこと、共感されるでしょうか?
私自身ももちろん例えば友達と喧嘩したとすると「本当、最悪!」と思うように感じますし、必要な資格の試験が不合格という結果だったとき「これからどうしよう」と感じるかもしれませんが、
これからもずっとそうかと言われると、絶対はないと思うので言い切れないところではあるものの、
2023年の今、自分自身の人生全体への評価まで巻き込んで下げてしまう、ということは今のところありません。
自分自身の人生全体への評価まで巻き込んで下げてしまうことがない、これは有用なことだと思います
冒頭に書いた、最近私が思っていること、最近そうなった、というよりは実はずっと前からそうだったことを意識しだしたこと、
人生はいろいろなことが並列で動いている
最近このことをよく意識するようになりました。
このことを最近、意識することが多くなってきたのですが、例えば私の今の人生にはいくつかの気になるカテゴリーがあります。
それは、今思いつく限りで書きますが、
「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」「身体」「健康」
などです。
例えば健康診断に行ったのですがあまり検査結果が良くありませんでした。
するとそれまであまり気に留めていなかった「身体」や「健康」のことが気になります。
上で例に出した「身体」「健康」のことが気になり出すと、どうなるでしょうか?
気になる、のは特にポジティブに気になるのではなくネガティブな側面で気になった場合です。
例えばその他の「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」と言った、「身体」「健康」によってあまり相関しそうにないことも少しネガティブに考えてしまうかもしれません。
例えば「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」では上手く行っていたタイミングでネガティブな「身体」「健康」のことが生じると、
別に調子は悪くなくて特に沈む要因のなかった「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」のこともネガティブな側面が気になり出して引っ張られて沈んでしまう。
このようなことがあるでしょうか?
少し不安の傾向が強い人であれば、このようなことがあるのではないかな、と感じています。
また私自身もそのようなときはありました。
現在、私自身は上でも書いたように、あまりどこかの側面が沈んでいると言っても、他の側面の評価まで沈むということは無いようになってきました。
それはブログタイトルにもある、
人生は並列していろいろなことが起きている
ということを意識し出しているからだと思います。
とは言え、
例で出した「身体」のことが気になり出した最初のタイミングでは頭の中がそのことで占有され、不安になったり、イライラしたり、そういったことはありました。
ただ頭の中がそのことで占有され、不安になったり、イライラしたりしたものの、
「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」のことも上手く行っていない、という風に評価してしまうレベルまでは引っ張られませんでした。
これは前提として「人生はいろいろなことが並列で動いている」ことを理解しているからだと、今は考えています。
私は「人生はいろいろなことが並列で動いている」ことを理解するためには「物事を弁別的に考えること」が大切だと考えているのですが、
「弁別的」とは「弁別刺激(Discrimination Stimulus)」という言葉をもじった今回のブログでの造語です。
「弁別刺激」とはABA(応用行動分析)の用語となります。
まずは最初に弁別刺激とは何か、「物事を弁別的に考える」とは何かについて簡易的に解説をさせてください。
弁別刺激、「物事を弁別的に考える」とはどういうことか?
「弁別刺激」は「刺激性制御(しげきせいせいぎょ)」が確立されることを言うのですが、
弁別刺激と刺激性制御についてRaymond .G .Miltenberger (2001) は、
刺激性制御は、特定の先行事象が存在するときにのみ強化されることによって確立される
結果として、その行動はその後、先行事象が存在したときにのみ生起するようになる
行動が強化されたときに存在している先行事象を「弁別刺激(Discriminative Stimulus)」と呼ぶ
と述べました。
難しい書き方だと思うので簡単に解説をすれば、
あるAという状況で行動が強化されると今後、Aという状況ではその行動が強まる(例えば出現頻度の増加)
このときの「A」という状況のことを弁別刺激と呼び、Aのもとで行動が増え、結果を受ける関係性が形成されることを「刺激性制御の確立」と呼ぶ
と言い換えれるでしょう。
例えばあなたが思春期で異性のことが気になってきたタイミングだとします
なぎさちゃんへ話しかけると、なぎさちゃんは笑顔で返してくれてとてもあなたとお話しすることが楽しそうでした。
異性と話すことに興味があり、好ましいリアクションを返されることが強化的な時期において、なぎさちゃんから返って来る関わりの結果はあなたにとって強化的です。
そのような結果が繰り返されると「なぎさちゃん」の存在はあなたにとって行動を引き起こす「弁別刺激」として確立されます(刺激性制御の確立)。
同じようにりつこちゃんにも話しかけていましたが、りつこちゃんはなぎさちゃんとは違って結構あなたに塩対応でした。
りつこちゃんに話しかけるという行動の結果に対して、特に好ましい結果が返ってこないとき、私たちは「消去」を受けます。
※ 場合によっては「罰」を受けます
りつこちゃんとなぎさちゃんは同じ異性という共通点を持っているものの、
あなたはなぎさちゃんが目の前にいるときは話しかけるのですが、りつこちゃんが前にいても特に用事がなければ話しかけることはない、というような学習が確立されました。
これが「刺激性制御」、「弁別刺激」の確立です。
上のようなエピソードは特に違和感のないエピソードだと思います。
杉山 尚子・島宗 理・佐藤 方哉・リチャード W マロット・マリア E マロット(1998) を参考にすると、
弁別刺激と非弁別刺激の存在があり、弁別刺激の下である行動を強化し、非弁別刺激の下では消去するという手続きを「弁別訓練」と呼びます。
そして杉山 尚子他 (1998) は「弁別訓練」を続けると「弁別刺激」が提示されているときに、その行動がより多くなり、このことを「刺激性制御」、または「刺激弁別が生じた」というと述べました。
上で出した日常エピソードは杉山 尚子他 (1998) の述べている「弁別訓練」の例で言えば、
・ なぎさちゃんへの関わりは強化された(今後、なぎさちゃんへ関わる行動が増える)
・ りつこちゃんへの関わりは消去された(今後、りつこちゃんへ関わる行動が減る)
という訓練過程が生じと言えます。
日常のエピソードなので訓練というと少し齟齬があるかもしれませんが、日常の中で以上のような学習過程が生じた、ということです。
本ブログで書いている「弁別的」という言葉は「弁別刺激」が確立される過程のときのように物事を捉える、
というニュアンスで今回使用しました。
つまりある事象とある事象は別々のものという学習が成され、私たちは分けて学習をしているのです。
私たちはこのように特定の状況と特定の状況のもとでは別々の学習が形成される、ということを知っておく方が良いでしょう。
そしてそのように特定の状況と特定の状況は別であると認識し考えることを「弁別的に考える」と本ブログページでは考えています。
本ブログページの以下からはブログタイトルにある、
人生は並列していろいろなことが起きている
ということを意識し出していることが、
上でも書いたように例えば「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」では上手く行っていたタイミングでネガティブな「身体」「健康」のことが生じると、
別に調子は悪くなくて特に沈む要因のなかった「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」のこともネガティブな側面が気になり出して引っ張られて沈んでしまう。
ことを防ぐことにどのように貢献するだろうか、ということを考察していければと思います。
また、もし、そのようなことで悩むことがある場合「人生は並列していろいろなことが起きている
」という考え方はどのように役に立つでしょうか?
今個人的に役に立つであろうと思うこの内容について以下から書いていきます。
物事を弁別的に観察するということ
今、思いつく限りで書いた私の人生に並列で起こっているであろうこと、
「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」「身体」「健康」
がありますが、「上がるか」か「下がるか」の2分法で考えるとどこかが下がる可能性が非常に高いです。
例えば簡単な確率論で考えて見ましょう。
「上がるか」か「下がるか」かの2分法で考えたとき、その確率は二分の一です。
ここまで全部で8個(「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」「身体」「健康」)書いていますので、
全部が「上がる」方向に行くことは2の8乗で512分の1となりパーセンテージにすれば約0.2パーセントの確率となってしまいます。
1000日あれば2日程度です。
並列しているものが多ければ多いほど、例えばここに「子ども」や「介護」などの項目が追加されれば2の10乗で2,041分の1となりパーセンテージにすれば約0.04パーセントの確率となってしまうでしょう。
実際、「上がるか」か「下がるか」の2分法で考えるのはナンセンスなのは「現状維持」もほとんどだからではあるとは思いますが、
全部が「上がった」と認識できるほどに上向きが生じることは確率的にはほとんどないのではないか感じているところです。
人生は並列していろいろなことが起きていると言われれば「それはそうだろう」と思うかもしれません。
このことをブログページを通して言葉にして読んでいる中で「それはそうだろう」と思っている人もいるでしょう。
ではなぜ、別に調子は悪くなくて特に沈む要因のなかった「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」のこともネガティブな側面が気になり出して引っ張られて沈んでしまうということが生じるのでしょうか?
1つの側面が沈むと、関係なさそうな他の側面も沈む
このことを私なりにABAで考察
例えばあなたは仕事の面で失敗をしました。
このときの失敗が「遅刻」というものだったとしましょう。
仕事で失敗をして、上司に怒られてしまい、少し嫌なことも言われました。
あなたは今回、仕事で失敗をして嫌な気分です。
このような、例えば「遅刻」という失敗をしたとき、もし「友達関係」で失敗とそれまで認めていなかったことでも、時間に関連したこれまでの記憶を思い出し、落ち込んでしまうことがあるかもしれません。
なぜそうなってしまうのかを説明するため、以下のエピソードをご紹介させてください。
あなたに好きな女性がいて、その女性と一緒に歩いています
彼女とはお付き合いをしている関係性ではなく、ただの友達です
あなたの好きな女性が180センチくらいある男性が歩いているのを目撃しました
そこで女性が「私は背が高い人が好み」と言ったとしましょう
あなたの身長は170センチです
このときもあなたはネガティブな情動を感じるかもしれません。
これは嫌な気持ちになる、ということです。
背が高い人、ではなく「肌が綺麗」「運動が得意」「勉強ができる」など、なんでも良いですが、その女性の言葉を聞いて多分、嬉しいとは思わないでしょう。
ここでのポイントは、女性は「私は背が高い人が好み」とは言ったものの「背が低い人は好みではない」とは言っていない点です。
身長170センチは低いとは思いませんが、あなたに対して直接「背が低い人は好みではない」とか「あなたよりも背の高い人が好き」などと言っていません。
つまり、直接体験はしていません。
しかし私たちは言葉を扱いますから、勝手に「私は背が高い人が好み = 背が低い人は好みではない = 私は彼女が好きな見た目をしていない」というように推論をしてしまいます。
そう、直接体験していないものの推論したり気づいたりし、そして勝手に落ち込んだりするのです。
上で出した例に戻ると、
仕事で「遅刻」という失敗をし、上司に怒られてしまい、少し嫌なことを言われました。
「上司に(直接あなたが)怒られた」、このことは直接体験です。
例えばその怒られている中で上司から「時間を守れない奴は、人間関係で信用されない、大切にされないぞ」と言われたとしましょう。
「人間関係」は仕事の関係だけでなく、友人間や家族間にも存在します。
上司から怒られているとき「人間関係」というキーワードも出てきたことで、頭の中に以下のような考えが巡りました。
「友達関係」でもこれまで遅刻をしたことがあったな、でもあのとき確か笑って許してくれていたと思うけど?
特にそのとき友達から怒られはしなかった
だから「友達関係」では失敗したという認識はしていなかったけれど・・・
ただ、なぜか自分が知らない話を他の友人間で共有していることもあったな
ということも今思い出しています。
そしてその自分が知らない話を他の友人間で共有していることを知ったとき、少し嫌な気分になったことも思い出しました
もしここで「時間を守れない奴は、人間関係で信用されない、大切にされないから友人間で共有している話を自分は共有されなかった」などと推論してしまうと?
もし「友達」関係で失敗とそれまで認めていなかったことでも、時間に関連したこれまでの記憶を思い出し、落ち込んでしまうことがあるかもしれません。
「あぁ、だから俺は友達にも信用されなかったのか」とか「友達にも信用されていないのかもしれない」といったように。
「家族」「恋愛」でも同じように推論したり気づいたりし落ち込んでしまうこともあるかもしれません。
あまり人間関係の関係なさそうな「資産」や「健康」「身体」においても「だから俺は上手くできないんだ」などと、こじつけのようですが推論したり気づいたりし落ち込んでしまうことがある可能性もあります。
ではどのようにすれば良いでしょう?
さぁ、ここで「物事を弁別的に観察する」を思い出して欲しいです。
私たちは「刺激性制御」、「弁別刺激」のもと、行動を学習するとき、それぞれ別の特定の状況のもとで行動が学習(強化)されてきました。
別々の状況で学習される中でそれぞれの関係性の中での振る舞いが学習(強化)されてきたので、ここまで書いてきたように、
1つのところで沈んだとき「他のところも同じではないか?」と推論したり気づいたりし落ち込んでしまう場合は、物事を過剰に捉えてしまっている可能性が高いかもしれません。
そのようなときは「刺激性制御」、「弁別刺激」のもと、行動を学習するとき、それぞれ別の特定の状況のもとで行動が学習(強化)されてきたことを振り返り、これはこれ、それはそれ、と分けて物事を弁別的に見て考えることが必要かもしれません。
じゃないといろいろなことが巻き込まれて情動や感情がぐちゃぐちゃになって苦しくなってしまうかもしれません
それは苦しい!!
もちろん当たっているときもあるかもしれません。
それは例えば「時間を守れない奴は、人間関係で信用されない、大切にされないから友人間で共有している話を自分は共有されなかった」が当たっている可能性の否定はできないでしょう。
ただそのときの大切な事実は、
仕事で遅刻をして怒られ上司からそのような言葉を言われるまであなたは特に意識をしていなかったし「友人関係」で上手く行っていなかったと(少なくともそこまでは)思っていなかったということです。
「反省する」ということは悪いことではありません。
「時間を守れない奴は、人間関係で信用されない、大切にされないから友人間で共有している話を自分は共有されなかった」と捉え前向きに「これからは気をつけよう」、と認識できるのであれば良い経験として活かせると思います。
一般的には時間を守れるということは、人から好かれる(悪く思われない)スキルの1つだと思うので、反省をして改善して行くことは今後さらに良い「友達関係」の形成に寄与する可能性もあるでしょう。
でも、このような前向きな捉え方ではなく、ネガティブに「時間を守れない奴は、人間関係で信用されない、大切にされないから友人間で共有している話を自分は共有されなかった」、
「だからダメだ」、「俺は好かれていない」というように捉えてしまうと、上手く行っていなかったと思っていなかった「友人関係」においても突然、疑心暗鬼になってしまったり、関わることに距離を置いてしまうかもしれません。
それは、もったいないと思います。
自発性が抑制され、うつうつした気分を呼び起こす可能性もあるでしょう。
本ブログでは、人生は並列していろいろなことが起きているという前提のもとで、並列しているどこかで何かネガティブなことが起きたとしても、これはこれ、それはそれ、と分けて物事を弁別的に見て考えることについて書いてきました。
何か悪いことが起きたとしてもこれはこれ、それはそれ、と分けて物事を弁別的に見て考えてみることはいかがでしょうか?
さいごに
本ブログページでは最近私が思っていることとして人生は並列していろいろなことが起きていること、物事を弁別的に観察することについて書いてきました。
人生は並列していろいろなことが起きていることについては、ブログページ冒頭、今思いつく限りで書いた、
「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」「身体」「健康」
などが私が思うところではあるのですが、年齢を重ね大きくなって行くにつれて並列して起こるだろうカテゴリーはだんだんと増えてきているように感じます。
人によっては8つよりももっともっと多い人もいるでしょう
本ブログページでは、
物事を弁別的に観察することでは、そのように考えることによって、
例えば「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」では上手く行っていたタイミングで「身体」「健康」のことでネガティブなことが生じると、
別に調子は悪くなくて特に沈む要因のなかった「仕事」「家族」「恋愛」「ブログ運営」「資産」「友達」のこともネガティブな側面が気になり出して引っ張られて沈んでしまう、ということについて、
1つのところで沈んだとき「他のところも同じではないか?」と推論したり気づいたりし落ち込んでしまう、ということは過剰に捉えてしまっている可能性が高いかもしれない、
「刺激性制御」、「弁別刺激」のもと行動を学習するとき、それぞれ別の特定の状況のもとで行動が学習(強化)されてきたことを振り返り、これはこれ、それはそれ、と分けて物事を弁別的に見て考えるのはどうだろうか?
という論でブログページを作成してきました。
今、私はそう思っているのですが、皆様はどうでしょう?
今回のコラムテーマでした。
またどうぞよろしくお願いいたします。
【参考文献】
・ Raymond .G .Miltenberger (2001)Behavior Modification : Principles and Procedures / 2nd edition 【邦訳: 園山 繁樹・野呂 文行・渡部 匡隆・大石 幸二 (2006) 行動変容方入門 二瓶社】
・ 杉山 尚子・島宗 理・佐藤 方哉・リチャード W マロット・マリア E マロット(1998)行動分析学入門 産業図書