ABA:応用行動分析27は「私が夜を好む理由ー自分の中で生じた過去のコンプレックスを関係フレームで簡易解説」というタイトルで書いていきます
さてABA(応用行動分析)を専門に学んでいる人は聞いたことがあるかもしれませんが「関係フレーム理論(Relational Frame Theory)」を知っているでしょうか?
現在2022年ですがRFTは比較的ABAの中で最近出てきた言語行動に関する理論です。
またブログ内でRFTについては詳しく書いていければと思いますが、
本ブログページでは簡単にRFTを紹介し、タイトルにあるよう「私が夜を好む理由」をRFTから振り返っていきたいと思います。
みなさんは朝や昼が好きですか?私は夜が好きです
みなさんは1日の中で好きな時間帯というものはあるでしょうか?
私は朝や昼が嫌いかというとそうではないのですが、夜ののがどちらかと言えば好きです。
私は夜が好きで、夜は私自身が安心する理由があり、昔から夜が好きになってしまう理由があったと感じています。
例えば中学とか高校のときカラオケがめちゃくちゃ流行ったのですが、朝5時までカラオケにいて、カラオケ店を出て日が明けているのを確認すると明るくなっているので牛丼屋などに寄らずすぐ帰りたいなと思ったことを覚えているのですが、
私がそのように思ったのはなんででしょうか?
お腹すいているのだったら牛丼でも食べて帰ればいいじゃないか、そう思うかもしれません。
理由は決して牛丼が食べたくないわけではなく、明るくなったというのがダメなポイントです。
明るくなったというのが嫌でした(吸血鬼か!!)。
夜が好きな理由は「頭がスッキリするから」とか「静かだから」とかそういったものではありません。
夜が好きな人にとっては理由はそれぞれだと思いますが、私の場合はそうではない明確な理由があったように思います。
私が夜が好きだった理由
私は男性で現在35歳ですが、私にも若い10代の頃は当然あったわけです。
過去の私も中学生にもなると第二次性徴が生じ、男性ホルモンの分泌が多くなってくる時期がありました。
私はお父さんもお母さんも決して肌がツルツルというわけではなくお顔に肌荒れがあったように思います。
これは小学校のときの保護者参観のときも思ったこともありましたが、小学校の頃から私は両親がすごく好きだったのでそのことを気にも留めませんでした。
時代が進み、私は中学生に上がったころからニキビがめちゃくちゃできてきたのです。
私はそれがすごく嫌で、その時期が高校在学中まで続きました。
当時の私にとってはすごく自身に生じた変化が残酷なように感じられ、死ぬ思いをしても良いから肌が綺麗にならないかなど悩んだものです。
夜は肌の凹凸が目立たないため私は安心しました。
人と会っているとき、特に相手が異性であればそうでした。
自分の中で肌が綺麗ではないということは確実にコンプレックスだったのです
特に異性に対しては相手に良く見られたい、受け入れられたいと思う時期でしたので自分自身でネガティブに思っていた部分は隠したい気持ちが大きかったのでしょう
ただ遊ぶのも楽しかったため夜早く寝ることが難しかったり、また食卓に好きなお肉が出てきてるのに優先して野菜を取って肌改善を目指すなど、セルフコントロールができず、当然のように肌事情が改善して行くことは年齢を重ねるまで無かったように思います。
本当であれば早く寝たりとか野菜を食べてビタミンを補充するなどは、死ぬ思いをしても肌が綺麗になりたいと思うほど悩んでいたのであれば必要なことだったのかもしれませんが当時はできませんでした。
今は肌に自信があるか?と言われると今もあまり自信はありません。
平均値よりも肌の綺麗さで言えば低いでしょう。
でも大きくなるにつれて「肌の綺麗さ」を何の目的のために必要としているのか?
という視点に立てるようにになって今はあまり気にならなくなりました。
さて「肌の綺麗さ」は何のために必要ですか?
「健康の指標である」、「自己満足」、「お子様のため」、「美しい自分でありたい」など人によって理由はそれぞれだと思いますが、当時、高校生の私が思っていたことはたった1つだけ、「異性にモテたい」という1点だけだったのです。
今の時代もかもしれませんが、当時も「美肌」は異性にモテる1つのポイントとなっていました。
私は美肌ではありませんでしたので、モテない(彼女ができない)と思っていたのですね。
幸い学生時代から自分が充分満足できる彼女ができたり、告白されたりもあったため、大きくなるにつれて徐々に「肌がそこまで綺麗じゃなくても別にええか」と思えたことはとても自分の救いとなりました。
そのように思えたことと自分自身が勝手に「肌が綺麗ではない = モテない」と思ったことについて関係フレーム理論の観点から考察していきたいと思います。
関係フレーム理論、何が私の肌事情と関係があったのか?
上記のような人生を歩んできた私ですが、関係フレーム理論(RFT)が一体上記のエピソードとどのような関係があるのでしょうか?
最初に書いたようにRFTはABAの中で最近出てきた理論ですが関係フレーム理論は「言語行動」の理論になります。
言語行動というと専門的な部分を含むのですが人間が扱う「言葉」をイメージしてください。
例えば私たちはイタリアンが好きな友人に対して、その人が食べたことのないお店の話を伝えたとき、その人は経験したことがない(直接強化されたことがない)にもかかわらず、私の話したイタリアンの料理店の強化価値を上げることができるのです。
この「直接強化されたことがないにもかかわらず強化価値を上げることができる」というのは私たち人間の持つ言語、言葉の力になります。
そして私たちが当たり前のように行っているこのような言語、言葉を使用した活動は人間に特有の行動のようです。
※ 動物の中には鳴き声によって危険を知らせる種もいるようですが、一般的にはそのように考えられています
例えばヒト以外の動物が学習をするとき「試行錯誤学習」と言い、行動をして経験し直接的に結果を受け、その結果から今後の振る舞いについて学習して行きます。
例えば「火に触ると痛い」などの学習を私たちはしているのですが、実際に私は火に触って痛い経験をしたことはほとんどありません。
言葉で教えられてきました。
「火というものはどうやら触ると痛いらしい」という言葉(ルール)によって私は火に触らないことの行動を持続させています。
またヒトが試行錯誤学習を行わないかというとそうではないことも面白いところでしょう。
試行錯誤学習はヒト以外の動物特有の学習方法かと言えばそうでなく、私たち人間は「言語、言葉による学習」に加えて動物が行っている試行錯誤よる学習も可能なのです。
本ブログページでテーマとして扱っている関係フレーム理論(RFT)は試行錯誤学習ではなく、主には言葉による学習(ルールなど)について理論立てたものとなります。
Jonas Ramnerö & Niklas Törneke (2008) によればその中心的な能力は「いろいろな刺激に関連付けること」のようです。
そしてそれはその刺激間にある恣意的(しいてき)に確立された関係(Arbitrarily Established Relations)に依存します。
「恣意的」という言葉は理論的に筋道が通っていなくとも、自分自身で意味を関連付けてしまうことと捉えてください。
ちょっと難しい言葉で、実際にABAを生業にしている人でもこのような言い回しは躓きやすいポイントでしょう。
Jonas Ramnerö 他(2008)は以下のエピソードを紹介しています。
例えば、もし誰かが「ケンはビルと全く違う」と言ったとしましょう
「ケンはビルと全く違う」という発言を聞く前と後ではケンに会ったときのケンに会ったときの関わり方は違ったものになるはずです
このような違いは以前にケンに一度も会ったことがなくとも生じます
このケンに対する反応は、ビルと実際に関わったときの体験に基づいて生じます
以上のようなエピソードです。
恣意的の解説についてD. Dahl, JoAnne C・Jennifer C. Plumb・Ian Stewart・Tobias Lundgren (2009) を引用します。
言葉が話せる人間は対象物間の物理的関係だけでなく、どのような関係かを決める文脈的手掛かり(Contextual Cues)に基づいて対象物を関連づけるという、他の動物にはないさらなる反応関係を示すということだ
例えば言葉が話せる子どもに架空の人物であるAさんとBさんについて「AさんはBさんよりも背が高い」と教えたとしよう
その後、背が低いのどちらかと子どもに尋ねたら、それ以上何も教えなくても「Bさん」と答えるだろう
この答えは物理的関係というよりも「より高い」や「より低い」という文脈的手掛かりに基づいている
教えられた関係性は何らかの物理的関係性に基づく必要はなく、どのような物理特性を持っていても恣意的にいかなる刺激にも当てはめることができるのだ
したがって、この種の反応は、恣意的に適用可能な関係反応と呼ばれる
Jonas Ramnerö 他(2008)やD. Dahl, JoAnne C他 (2009) を参考にすると言えそうなこととして、私たち人間は動物にはない能力として、
「Aと違う」や「Aよりも高い」などの情報が与えられたとき、Aを知らなくとも「Aとは同じではない」や「Aよりも低い」などの文脈から来る関連付けを解釈し、学習することが可能ということを能力として持っているということです。
例えばPatricia A. Bach・Daniel J. Moran (2008) は、
スイートポテトパイがどのような味かということは実際にそれを食べることでした直接的に経験することはできないが、一方パンプキンパイを食べたことがある人なら「スイートポテトパイはパンプキンパイと味が似ている」と知ることによってスイートポテトパイがどんな味か推測できると述べました。
このような「同じと違う」とか「高いと低い」とか「似ている」などの言葉が持っている関連性によって推測を促進してしまう関係性を関係フレーム理論の中で「関係フレーム」と呼び、刺激間の対称性や類似性などの関連性からそのように捉えてしまうと考えられています。
さてこのような直接的に経験していなくとも既に持っている言葉の枠組み(フレーム)から私たちは予測し、
それがルールとなり行動を変えることができる(変えてしまう)とすれば、
高校生当時の私がお肌に自信がなかったことはどのように説明が可能でしょうか?
関係フレーム理論が与えた私の肌事情に関してあった異性へのルール
私自信は異性にアプローチする前から、私のビジュアル(肌が綺麗ではないという事実と思い込み)から、もしかすると受け入れてもらえないかもしれない、という気持ちが先行しました。
以下どのような関係フレームが生成され、私を悩ましたのかを書いていきましょう。
私が「肌が綺麗 = モテる」という枠組み(フレーム)を持っていてしまうと、対照的に、
「肌が綺麗ではない = モテない」という結論を導きます
そしてこれはさらに、「肌が綺麗ではない = モテない」という結論を導き、
そこから「モテない = 彼女ができない」という結論を導き、ここから「彼女ができる = 良いことと」と思っていた場合には(私はそう思っていました)、
「彼女ができない = 悪いことだ(自分の人生を豊かにしない)」という結論を導き出してしまします
このような考え方を持った時期、私はとても不幸せな人生に感じてしまったのです
このような関連付けが自動的にそして自然(自身にとっては恣意的)に生じてしまい、行動を変えてしまう(肌が綺麗ではないことで挑戦もしていないのに女性に否定されると考え、女性との接触を避けてしまう)ことが関係フレームの怖いところでしょう。
結果から言えば私は告白されたり、彼女ができたりする中で時間を追うごとに「肌が綺麗ではない = モテない」というロジックの反証があり、運良く私の人生の短い時間の中で上記のルールは崩れました。
「肌が綺麗ではないことで挑戦もしていないのに女性に否定されると考え、
女性との接触を避けてしまう」という期間もなかったわけではありませんが、
比較的思春期の短い期間でそのような時間は終わったことは幸いなことです
私は運良く「肌が綺麗ではない = モテない」というロジックから当時抜け出すことができましたが、全ての人がそうではないかもしれません。
このような言葉が生むルールから悩みに引きずられ、行動が変化し悪い方向に進んで行くことが私たち人間にはあるでしょう
例えば精神疾患と呼ばれる症状でも同じことが生じていると考えられています。
ずっとこのような側面から悩みを抱え時間が進まない、関係フレーム理論は人間の発展を説明することにも役に立ちますが、このような悪循環を招く事象に対しては関係フレーム理論から私たち人間の持ってしまた能力の「ダークサイド」と呼ばれることがあります。
みんなコンプレックスはあるでしょう?
そしてそのコンプレックスが理想の自分に近づけないダムのような自分自身の行動を止める原因になっていると感じることも既にあるかもしれません。
「背が低い」とか「お金がない」とか「コミュニケーション能力が低い」とか「清潔感がない」など、理由は無限にあります。
そのようなとき一度、振り返ってみて、本質的に欲しかったものは何で、その本質的に欲しいものを本当にそれが蓋をしている証拠はあるのか?
ということに立ち返り、検証するために「行動してみる」ことは大切かと思います。
実際に行う前には「やっぱり」という結果が来ることがとても怖いと思うでしょう。
また実際嫌な結果に触れることになるかもしれません。
でも例え返ってきた結果がネガティブな結果だったとしても、そのことも実は動いてみたことで初めて触れることができた、とても大切な経験です。
動いてみる、私の場合は偶然時間が勝手に動いた感覚なのですが、「そうじゃなかったかも?」という疑問を体験する(できる)ことで時間が動いて行くでしょう。
結果的にベストな結果を体験できたときは、すごく面白い体験を味わえるでしょうし、たとえ結果的に「やっぱり(ダメだった)」という結果にであってしまってもあまり落ち込むまないでください。
結果的にダメだったとしても、その中で得るものがあります。
例えば「何がダメだったんだろう?」とそれまでよりも建設的に考えるヒントがより具体的になるかもしれません。
残酷なことに私たちが何か変えたいと思ったとき、自分自身が動かないと結局現状が変わるのは本当に運次第になってしまいます。
偶然のチャンスを待つのではなく、自分自身でできることを探し動く方が結果的に人生の満足度も高くなるように思うのですがいかがでしょうか?
さいごに
本ブログページでは私自信が思春期のときに感じていたコンプレックスについて書いてきました。
私が夜が好きな理由はあまり綺麗じゃない肌を隠せる、ということが理由でした。
そして肌が綺麗じゃない、それが「なぜ嫌だと感じたのか」ということも書いてきましたね。
本文で書いてきたように「なぜ嫌だと感じたのか」は「異性にモテない」「彼女ができない」と思ったからでした。
このように1つのことを嫌だと思ったらどんどんと関係なかったもの(例えば朝や昼)まで嫌になってと、嫌悪対象は派生していくのです。
これは怖いことです。
また直接「肌の綺麗じゃない男は女にモテないぞ」と言われたわけではなく、「美肌 = モテる」というルールを知り、そこから勝手に自分自身で「美肌ではない自分はモテない」と直接言われていないルールを作り出し、悩んでいたということもポイントでしょう。
「美肌ではない = モテない」というルールが勝手に生成されてしまうので、例えば昼間デートをすることを回避したりします。
直接経験(昼間デートをしていて「肌綺麗じゃないよ」と言われるとか)していないにもかかわらずこのような行動制限が自分の中で勝手にかかるのです。
言語行動はこのような強力な行動変化を生み出します。
またブログ内で言語行動についてはフォーカスして書いていければと思いますが、今日は過去私の持っていたコンプレックスと関係フレームを関連付けた内容を書いてみました
みなさまコンプレックスはありますか?
私は大人になってからはちょっと小太りなので今はそれがコンプレックスです(笑)
本ブログで書いてきたように、もしコンプレックスがあって行動に抑制がかかっているとすれば、コンプレックスを解決してから動く、ということも良いかもしれませんが、
コンプレックスがあるから行動化できないというルールにがんじがらめになっていて動けないと思い込んでいるだけ、ということもあるので、一度その点考えてみても良いかもしれません。
【参考文献】
・ D. Dahl, JoAnne C・Jennifer C. Plumb・Ian Stewart・Tobias Lundgren (2009) The Art & Science of Valuing in Psychotherapy: Helping Clients Discover, Explore, and Commit to Valued Action Using Acceptance and Commitment Therapy 【監訳:熊野 宏昭・大月 友・土井 理美・嶋 大樹 (2020)ACTにおける価値とは クライアントの価値に基づく行動を支援するためのセラピストガイド 星和書店】
・ Jonas Ramnerö & Niklas Törneke (2008)The ABCs of HUMAN BEHAVIOR:BEHAVIORAL PRINCIPLES FOR THE PRACTICING CLINICIAN 【邦訳: 松見純子 (2009)臨床行動分析のABC 日本評論社】
・ Patricia A. Bach・Daniel J. Moran (2008)ACT in Practice Case Conceptualization in Acceptance & Commitment Therapy. 【邦訳 武藤 崇・吉岡 昌子・石川 健介・熊野 宏昭 (2009) ACTを実践する 星和書店】