お子様のその発声(言葉)は果たして意味を持っているか?(ABA自閉症療育の基礎108)

本ブログページでは「お子様のその発声(言葉)は果たして意味を持っているか?」ということについて書いて行きます。

本ブログページを見ることで「ABA(応用行動分析)」ではどのように「発声(言葉)の使用」をアセスメントすれば良いか、なんとなくわかるようになるでしょう。


お子様が生まれ、時間が経つと肉体的に成長をして行くことが観察されると思いますが、発達段階の中で「クーイング」「喃語(なんご)」と呼ばれる発声が出現するのが普通です。

平成30年厚生労働省の資料によれば子どもは生後2ヶ月か3ヶ月ごろから「クーイング」と呼ばれる柔らかい声を出すようになります。

この資料によれば4か月頃になると保育士等があやすと微笑み返すようになり「アーアー」「バー」などの喃なん語を発するようになる。

こうした喃なん語に保育士等が音を真似て返したり「ご機嫌ね」「お話し上手ね」などと優しく語りかけたりして応えることで、子どもは自分の要求に応じてもらえるという喜びを感じ声などで自分を表現する意欲が高まるため、

言葉になる前の子どもの表現に丁寧に関わり応えていくことが、子どもが人とやり取りする心地よさと意欲を育むと記載があります。


お子様の喃語を見たら感動しそう!

また阿部 五月・藤永 保・田中 規子 (2001) も6 ヶ月以降になって喃語と呼ばれる声を発するようになると述べており、

1 才頃になりマンマ、ワンワンなどいわゆる「ことば」を発するようになる前に子どもは実は様々な発声を積重ねていると述べました。


そして阿部 五月他 (2001) も実際個人差はあるものの2 ヶ月頃から「ア ー」とか「クー」とか聞こえる柔らかな声(クーイング)を出し、6 ヶ月頃からは「パパパ」、「ダダ」 などという少し高次な発声(喃語)を、そして 1 才前後には身近で簡単な単語を発し始める

そして数年間で母語の基本的要素をさらに就学前には主な文法規則(統辞法)や意味的側面を習得すると いった過程は多くの言語に共通であるという知見が見い出されている

と述べています。


さて、私たちが「言葉」と呼ぶものと「発声」は同じでしょうか?

私自身は「発声」は「生態機能を使って音を出す」という意味の行動で、「言葉」は例えば発声などを使用して「相手に対してコミュニケーションを取る手段」である、というように考えています。

あえて「発声など」という書き方をしたのは「筆談」や「手話」のように発声を必ずしも必要としない言葉の使用があるからです。


Enせんせい

「相手に対してコミュニケーションを取る手段」として音を出したとき、それは「発声」とも「言葉」とも記載することができると思いますが、

もしお子様が声帯を使用して音を出していたとき、言葉として機能しているでしょうか?

今回はそのようなお話です


お子様が声帯を使用して音を出していたとき、言葉として機能しているかどうか?

ということをアセスメントすることは個人的にはとても大切なことかと思います。


どのようにアセスメントして行けば良いか、またどのように支援して行けば良いのか?

について本ブログページでは書いて行きたいと思います。


書いて行く!


言葉を使うとはどういう意味か?

「言葉」をどう定義するか?実は、これは学派によって考え方が違うと思います。


例えばABAは行動主義という考え方に入るのですが、

小林 春美・佐々木 正人 (2008) は行動主義アプローチに強く批判し、言語獲得理論研究に革命的変化をもたらしたのがチョムスキーであったと述べました。

小林 春美他 (2008)によればチョムスキーは行動主義では子どもの姿を刺激と反応の連鎖を形成するだけのきわめて受動的なものとして描いていると批判し、実は子どもは脳の中に言語のルールを持っており、外界からの情報に基づいてそのルールを変更・完成させて行く能動的なものだと主張したとのことです。


行動主義では個人と環境との相互作用で学習を捉える(参考 大河内 浩人,2007)のため、個人的にはお子様の脳内に言語のルールを持っているということを否定はしていない(あるとも言っていないが)とは思うのですが、行動主義の中ではそのように脳の中にルールがあるとはあまり考えていない(意識していない)と思います。

「もともと人の頭の中には言語のルールを持っている」という考え方の学問もメジャーだと思いますが、そこの点に重きを置くかどうかということは行動主義、ABAとの違いですね。

※ チョムスキー、有名な人で私も名前を知っています


Enせんせい

なのでこのブログページで書く「言葉(言語)を使えている」という答えは一般的なものではないかもしれません

ABAの見方、加えて私見も入っているように思いますが、

「言葉を使えているかどうか?(お子様の発生は意味を持っているか?)」について書いていきたいと思います


例えばMary Lynch Barbera (2007) は言語行動とは言葉を話すことだけではなく、指差し、手話、筆談、またはジェスチャーなどあらゆる種類の非言語的コミュニケーションも含み、癇癪もまた、実はコミュニケーションと言えると述べました。

「言葉(発声)を使ったコミュニケーション」は言語行動ですが、何も言語行動とは言葉(発声)を必ずしも必要としない、という主張です。


本ブログ内でもご紹介している、

ある特定の状況で行動のあと強化子が伴えば、今後その行動は特定の状況で増加して行く、強化の原理ですが、

ABAでは言葉もこのように捉え、言葉が機能的(意味を持つように)強化されていく中で使用されて行く、と考えます。


例えば以下の(例1)(例2)を見てみましょう。


・ 特定の状況(日本人が目の前にいる)

・ 「ちょっと来て」と伝える

・ 日本人は近くに来てくれる(行動に伴う結果、来て欲しかったとすれば強化子となる)


人に近くに来て欲しい理由はさまざまですが手伝って欲しいときなど、来て欲しいなと思ったとき「ちょっと来て」と言えば目的は達成されることが多いでしょう。

そのため日本人がいるところで人に近くに来て欲しいとき「ちょっと来て」という行動は強化される可能性が高いです。


では以下の場合はどうでしょう?


・ 特定の状況(海外の方が目の前にいる)

・ 「ちょっと来て」と伝える

・ 言葉がわからないのか、近くに来てくれない(行動に伴う結果)


日本人がいる場合と違って海外の方が目の前にいる状況で、「ちょっと来て」と言っても来てくれないかも知れません。


もし(例2)のようにその言葉を使っても意味がない(自分が意図した結果が伴わない)のであれば、例えば手招きをするとか困った顔をしてアピールするとか、別の手法を使うと思います。

そして例えば手招きをすれば来てくれる確率が高いことが分かれば、今後外国の方がいる状況で人に来て欲しいときは「ちょっと来て」と言葉で言うことは減り、代わりに手招きをする行動が増加して行くでしょう。


目的を達成するために行動が増えたり、達成できなければ別の行動が強化されるという視点は大切です

「言葉」について私は以上のように「意味(機能的)を達成するために使用できているかどうか」が大切なポイントだと思います。

そのためただ音を発声しているだけの場合だけではまだその発声を「言葉」としては使用できていない、というように考える(アセスメントする)ことが多いです。


次の項目ではお子様が発声していたとき、その発声が意味があるかどうかをどうアセスメントして行くかについて書いていきます。


※※※※注意※※※※

本ブログページで記載している内容はスキナー(ABAを創始した学者)が述べた言語行動の内容に留まっています。

この点には注意しましょう。


例えば近年、Steven C. Hayes・Kirk D. Strosahl・Kelly G. Wilson (2012) は、

スキナーは言語刺激を単純に言語行動の産物と定義したが、言語行動の定義は、人間以外の動物のオペラント行動とまったく区別がつかない仕方でしかされなかった。それらいずれのアプローチについても見込みが期待できなかったため、我々、心理学者はまた別なところへと目を向けることになった、と述べていますが、

スキナーの言語行動の範囲を超え言語を理解しようとするABAの考え方も出てきています。


自閉症を含む発達障がい、特に幼児期のお子様に対応する分には本ブログページで扱う範囲で充分かと思いますが、

一応現在ABAでは本ブログページで書かれている内容以上に広い意味で言語行動というものは研究されている、ということだけはお伝えをさせてください。


Steven C. Hayes・Kirk D. Strosahl・Kelly G. Wilson (2012)


その発声は言葉として意味を持っているかどうかをアセスメントする

例えば遅延性エコラリアという言葉を聞いたことがあるでしょうか?

過去に見たCMのフレーズを突然繰り返して言う。そのときCMは流れていないにも関わらず言っているので、遅れて言っている(遅延性の)エコラリア(オウム返し)と呼ばれます。


Enせんせい

このような遅延性エコラリアは果たして言葉としての意味(機能)を持っているでしょうか?


Robert L. Koegel・Arnold Rincover・Andrew L. Egel (1982) は遅延性エコラリアには2種類の動機づけが関連していると述べました。

1つは「感覚的な要因(聴覚刺激隠蔽の意味があったりやエコラリアの音自体が強化子となっている)」場合

そして2つめに『「ダメ」「ちゃんとしなさい」など明らかに過去の嫌悪事象や要請の事態(罰)に結びついた』場合をあげています。

Robert L. Koegel他(1982)2つの動機づけではお子様はいずれも遅延性エコラリアが発声することによって他者とのコミュケーションを図ることを意図していません。


言葉の発達が進み、言葉がある程度扱えるようになると自分にとって意味のある言葉は重要になってくるでしょう(例えば、僕は〜〜のようになりたいなどの自己ルールの形成や頭の中でご飯を食べてから準備した方が良いななどと考えるなど)。

しかしまだ言葉の獲得初期のお子様の場合は言葉の発達が進み言葉をある程度扱えるお子様と比較するとそこまで重要度は高くないように思います。


遅延性エコラリアのようにもし他者とのコミュニケーションとして意味を持っていない場合は、

ただ音を発声しているだけで「言葉」として使用できていない

と私は捉えます。

それはもしこのような遅延性のエコラリアしか発声がない場合は、お子様が言葉の使用をできていないと考えるということです。


Enせんせい

では意味のある言葉とはどういったものでしょうか?


例えばお母様がチョコレートの箱を持っているときお子様が「それ、ちょうだい」と言ったとしましょう。

この言葉は意味を持っていそうです。

例えばお母様が「勉強しよう」と言ったとき、お子様が「もっと休憩したい」と言ったとしましょう。

この言葉も意味を持っていそうですね。


では、

例えばお母様がチョコレートの箱を持っているときお子様が「もっと休憩したい」と言ったとしましょう。この言葉は意味を持っていそうですか?

例えばお母様が「勉強しよう」と言ったとき、お子様が「それ、ちょうだい」と言ったとしましょう。この言葉は意味を持っていそうですか?


Enせんせい

実はこれはもしかするとお子様からすれば意味があったのかも知れません


例えば「ちょうだい」という言葉を持っているお子様はこれまで「ちょうだい」と言うことで自身の状況が良くなる(好きな食べ物がもらえる、好きなおもちゃがもらえる)ことを経験をしてきたため、

「お勉強をする」と言われたときそれが嫌で、自身の状況良くするため今まで使用してきた、状況を良くする魔法の言葉「ちょうだい」をとりあえず使ってみたのかも知れません。


例えばあなたが海外に行ったことをイメージしてください。

英語は話せないとします。


英語で相手がコミュニケーションを取ってきたとき、とりあえず指をさして何かしてもらったあと「サンキュー」と言っておけば、


・ 買い物で欲しいアイテムが手に入りました 

・ ホテルマンがドアを開けてくれました

・ 欲しい食事のメニュー(写真で掲示されていた)を頼むことができました


本当の意味で英語は全くわかっていませんが、上のような状況が続いたとしましょう。

あなたにとって指差しとサンキューはまさに魔法の言葉です。


もしあなたが海外で突然、道を歩いていたら横から大きな声が聞こえ、目の前で大きな男性に通せん坊されたとしたら怖いと思いませんか?

あなたはとりあえず正解はわからないものの指をさして(あっちに行きたい意志を示す)と思います。


それで通せん坊している人が少し避ける動作をしたら?

良くわからないけれど、これまでの学習歴から「サンキュー」と言ってしまうかもしれません。

もしかすると「は?サンキュー?金を出せって言っただろ」などと言って男性が絡んでくるかもしれませんね。


Enせんせい

果たしてこのような状況は言葉を使えていると言えるでしょうか?


言葉の使用について以下2つの段階に分けて考えていきましょう。


(1) 言葉を全く使えていない

(2) 言葉をほとんど使えていない


以下から(1)(2)の段階を考えお子様のその発声は果たして意味を持っているか?というテーマに取り組んでいきましょう。


取り組んでいきましょう


(1) 言葉を全く使えていない

最初に言葉を全く使えていない状態とはどういったものでしょう?

「声を出さない」ということではなく、私が個人的に思うのは声を出してはいても「行動の結果として生じることの予測が1つもない」ように見える場合、言葉を扱えていないと考えています。


本ブログページ上の方でMary Lynch Barbera (2007) は言語行動とは言葉を話すことだけではなく、指差し、手話、筆談、またはジェスチャーなどあらゆる種類の非言語的コミュニケーションも含み、癇癪もまた、実はコミュニケーションと言えると述べていますが、

私自身も例えば他者とコミュニケーションを取る意味で言葉を使っていない場合それは「言葉を使えていない」と判断しても良いという考えです。

※ 特に幼少期の場合はそう考えています


それは例えばアンパンマンを見て「アンパンマン」と言うし、電車を見て「電車」と言えるものの、周りの人が「これ何?」と言ってアンパンマンや電車を見せたときには一切反応が無く、

自分自身のタイミングのみで目に入ったときにのみに物の名称を言う場合などがそれにあたると考えています。

このような言葉の使用しかない場合は、特に自閉症で幼児期の場合はその発声は意味を持っていない(コミュニケーションを取るという言葉としての意味はない)と判断することが多いです。


Enせんせい

アンパンマンを見て「アンパンマン」と言うし、電車を見て「電車」と言うので、

周囲の人もお子様が「アンパンマン」や「電車」は知っている、ということは理解できるでしょう

ただ言葉として機能的(意味を持って)に使えているかどうかと言えば使えていないと考えられます


このようなお子様の場合は名前を聞かれたタイミングでその名前を言葉で言えるように支援をしていくことが大切でしょう。

相手が居て、相手のアクション(「これは何?」と言う問いかけ)に対して適切に反応する、もしできたら褒めてあげてください。

療育初期でまだ、人への興味関心が薄い場合は(最初は抱っこやくすぐりといった人との関わりを通したコミュニケーションを試して欲しいですが)好きなお菓子をあげても良いでしょう。

相手のアクションに対してお子様自身がアクション(相手の望んている適切な)を返すという、この関係性が強化されることが最初のステップです。


自身が行動することで強化子が手に入る、そのことをお子様が学ぶことを私は良く「行動の結果に結びつく関係性を学ぶ」「自身の行動と、行動したあとに来る結果の因果関係を学ぶ」と親御様に言ってきました。

自分の行動が環境側を変化させるんだ、という関係性をお子様が学ぶことが「(1) 言葉を全く使えていない」という段階にいるお子様に対する介入のファーストステップだと思います。


またこれは例えば無発語のお子様では発声によって達成しなくても良いです。

発声すること自体がまだ難易度が高い場合、例えば「マネして」と言って相手が茶碗に積み木を入れる動作をしたとき、同じように茶碗に積み木を入れることを行う、すると良い結果が来ることを学ぶでも良いでしょう。

大切なのは特定の状況で自身が行動した結果、相手が何かしらの結果を返してくれるという関係性を学習することです。


この段階のお子様は最初は茶碗に積み木を入れる動作も難しい可能性があります。

そのようなとき、本ブログページで紹介して来ました(必要であれば検索窓から「プロンプト」や「プロンプトフェイディング」を探してみてください)が、

プロンプト→プロンプトフェイディング→強化→強化子のリダクション

という定番のABA自閉症療育が扱う流れが役に立つでしょう。

例えば以下のブログページに方法が紹介されています。


参考:(ABA自閉症療育の基礎43)オペラント条件付けー強化子のリダクションとプロンプトフェイディング(https://en-tomo.com/2020/10/04/reduction-fading/


2) 言葉をほとんど使えていない

このケースは言葉を使えていると判断できるもののたった一つだけ(もしくはごく少量)の言葉のみで相手とのコミュニケーションをとっている場合です。


上で書いた海外を例としたエピソードをもう一度ご紹介しましょう。


もしあなたが海外で突然、道を歩いていたら横から大きな声が聞こえ、目の前で大きな男性に通せん坊されたとしたら怖いと思いませんか?

あなたはとりあえず正解はわからないものの指をさして(あっちに行きたい意志を示す)と思います。


それで通せん坊している人が少し避ける動作をしたら?

良くわからないけれど、これまでの学習歴から「サンキュー」と言ってしまったとすれば?

もしかすると「は?サンキュー?金を出せって言っただろ」などと言って男性が絡んでくるかもしれません。


上のエピソードではとりあえず指をさして何かしてもらったあと「サンキュー」と言っておけば何とかなってきたという学習経験から導かれた結果です。

このときあなたは「あ、指差ししてサンキューだけで難しい場面あるんや」と新しい学習を経験することになります。

※ 決して上のようなリスキーな状況でそのような新しい学習はしたくはないものですが・・・(笑)

以上のような経験を通して、ある状況ではサンキュー+指差しが機能しないことに気づき、そういった状況では別の行動をする必要がある、ということの学習をするのです。


例えば「(ABA自閉症療育の基礎36)オペラント条件付けー弁別刺激の確立、エピソード
https://en-tomo.com/2020/09/06/aba-operant-stimulus-control-episode/)」で書きましたが、

これは弁別刺激が確立されたことを示します。


(ABA自閉症療育の基礎36)オペラント条件付けー弁別刺激の確立、エピソードのサムネイル

つまり今までは全ての状況で特定の行動を行なっていたわけですが、行動を行っても強化が伴わないことを学習すれば、


・ Aという状況ではA’という行動を取る必要がある

・ しかしBという状況ではA’以外の行動を取る必要がある


ということを学習します。


生きて行く中でこれはその後どんどんと広がりを見せ、


・ Aという状況ではA’という行動を取る必要がある

・ しかしBという状況ではB’という行動を取る必要がある

・ しかしCという状況ではA’、B’以外の行動を取る必要がある


と広がって行くことでしょう。


例えば外食に行ったとき、お肉が食べたいにも関わらずお寿司屋さんで焼肉を注文することは焼肉が食べたいと言う目的を達成するに至らないケースが多いのです。

同じようにお子様もお勉強の再開を求められたとき、もう少し休憩したいことを伝えるときに「それ、ちょうだい」と言っても達成に至らないことが多いでしょう。

そういうときに「じゃあもう少し休憩したいと言いなさい」とプロンプトを出しお子様が「休憩」と言ったのちに休憩を取らせる、ということを続けていけば?

お子様はお菓子が欲しいときには「ちょうだい」、休憩をもう少し取りたいときは「休憩」と言えるよう行動が分化していきます。


・ お菓子が欲しい状況では「ちょうだい」と言う行動を取る必要がある

・ 休憩したい状況では「休憩」と言う行動を取る必要がある

・ しかしCという状況(例えばお友達と一緒に遊びたい場面)では「ちょうだい」、「休憩」以外の行動を取る必要がある


このように弁別が進み学習が成立して行くのです。


このときも、

プロンプト→プロンプトフェイディング→強化→強化子のリダクション

という定番のABA自閉症療育が扱う流れが役に立つでしょう。


Enせんせい

基本的にABA自閉症療育ではお子様ができないことをできるようにする際、

上の流れを使用し少しずつできるようにスモールステップで計画しシェイピングして行くことがほとんど全ての方略と言えます



つまり発声が意味を持っているかどうかとは?

本ブログページのタイトルは「お子様のその発声は果たして意味を持っているか?」でした。

ここまで書いて来た内容のポイントをまとめると、


・ 発声が伴わなかったとしても筆談や手話などの言葉の使用はあり得る

・ 発声が伴ったとしてもその発声が他者とコミュニケーションを取るという結果を招かない場合は私は言葉の使用としてはアセスメントしない

・ 状況にそった形で言葉の使用を行わなければそれは機能しない(目的にそわない)


といった内容です。


まずタイトルにあるお子様のその発声は果たして意味を持っているか?ですが、

特定の状況で特定の発声を行い、その結果、ある程度一貫した結果を受けている

ということが確認されれば、お子様は言葉のレパートリーの多い、少ないは別として発声は意味を持っている(発声によって言葉を使用している)と言えるでしょう。


「特定の状況で特定の発声を行い、その結果、ある程度一貫した結果を受けている」は少し難しそうな言い回しですが、


・ 朝お父さんに会った状況で、「おはよう」と発声を行うと、だいたい笑顔でお父さんが頭を撫でておはようと挨拶を返してくれる

・ お母さんがお菓子を出した状況で、「ちょうだい」と発声を行うと、だいたいお菓子が貰える

・ 先生とお勉強している時間、休憩中先生が「そろそろ勉強を再開しようか」と言った状況で、「もう少し休憩させて」と発声を行うと、だいたい先生はあと1−2分休憩時間を長くしてくれる


このような目的が叶い、機能的なコミュニケーションの道具として言葉が成立していた場合、お子様は発声によって言葉が扱えている、その発声は意味を持っていると言って良いです。

意図しない結果が連続してお子様の行動に伴っている場合はその言葉の使用は徐々に減って行くはずですので、その言葉の使用が増加(または維持、使用し続ける)ことが観察される場合はその言葉の使用によって強化子を受けています。


またこれはもっと簡単に、お母様がお菓子を見せたとき「あ」と発声しお菓子をGETしている場合でも良いでしょう。

他にもお父さんと一緒に遊んで欲しいとき上手に「あそぼ」と言えなくて良いのです。

お父さんと一緒に遊びたいとき「うう」と発声していて、その結果一緒に遊んでいるという結果を享受している、また次も同じような状況で「うう」と発声が見られる。

言葉がちゃんと使えているかどうか、明瞭に発声できているかは実は問題ではなく、意味を持って目的を叶えるため機能的に使用できているかどうかが大切です。


あとは弁別できて、その弁別できた状況下で使えるスキルの範囲の問題でしょう。

弁別ができてというのは例えば同級生にお願いをするときと先生にお願いをするときは状況が少し違います。

このような状況の違いを認識できているかどうか、ということです。


弁別できた状況下で使えるスキルの範囲の問題とは、

例えば日本にいるときとアメリカにいるときでは使用する言葉を変える必要があります(日本では日本語、アメリカでは英語)。

但しそのことが理解(弁別)できていたとしても英語を話すというスキルがなければ、理解(弁別)できていたとしても行うことはできません。


いろいろ知識が増えて行く中で「こういうときはこうする」という認識が弁別されていきます。

弁別をもっと一般的な言い方に変えれば「区別」と言っても良いでしょう。


Enせんせい

このようにAのときとBのときは違う、だからAのときはA’をするし、BのときはB’をする

ただA’もB’も行うためにはスキルも持っていなければいけません


私は例えば「あ」しか言えず、お菓子が欲しいときも、遊んで欲しいときも、休憩したいときも全て「あ」ですましているお子様も、弁別できる範囲やその弁別できた状況下で使えるスキルは少ないものの、その発声が目的を叶えるよう機能している場合はその発声は言葉として意味を持っていると考えます。

対してアンパンマンを見て「アンパンマン」と言うし、電車を見て「電車」と言えるものの、周りの人が「これ何?」と言ってアンパンマンや電車を見せたときには一切反応が無い場合はコミュニケーションを意図とした発声の使用ではないため、言葉として機能していないと考えます。

ただ、一般的には周囲の人から見ればアンパンマンを見て「アンパンマン」と言うし、電車を見て「電車」と言える子の方が流暢に発声しているので言葉を使用していると判断されるでしょう。


ここがABAの「言葉を機能的に支えているかどうか」という視点でアセスメントするときの違いかなと思うところですね。



さいごに

以上お子様のその発声は果たして意味を持っているか?というテーマで書いてきました。

ここまで発声が目的を叶えるため機能的に使用できたとき、それは意味を持ち言葉となると書いてきましたが、言葉を使用できる種は人間だけでしょうか?


例えばYuval Noah Harari (2011) によればサバンナモンキーという動物は鳴き声によって「気をつけろ!ワシだ!」と警告することが観察されているようです。

そのような鳴き声を聞くと猿たちは一斉に上を向くようですが、面白いことにそれとはわずかに違う鳴き声は「気をつけろ!ライオンだ!」という意味の警告となり、猿たちは一斉に木に登ることが観察されました。


Enせんせい

私からすればこれは発声を使用した言葉です


私たち人間はサバンナモンキー以上にいろいろなシチュエーションに対応して言葉を使用することができます。

仕事についている大人が「あのひと結局、どうして欲しかったのかよくわからんわ」と同僚に言われる(大体はネガティブな表現で言われる)こともあるでしょう。


この世界には「上手い異性との話し方」、「仕事先と上手くやるための話し方術」、「絶賛されるプレゼンテーションの方法」など、今適当にタイトルは書きましたが、似たようなタイトルの書籍も多いでしょう?

コンビニなどでも目に入りますが、そのようなスキルを求めている人も多いのかもしれませんね。

このように働いている大人であっても、友達がいる大人であっても言葉を充分に困難なく使いこなすというのは実は難しいのです。


話すのが上手い人を見て羨ましいな、と思うこともあるでしょう?

お子様の言葉の発達で言えば本ブログで書いてきたような発声が意味を持っていないお子様はまずは意味を持たせることを目指します。

そして、発声が意味を持ってからが勝負です。

その先、5W1Hや受動態などもっと高度な発声術をお子様は身につけて行く必要が出てくるでしょう。

まずその1歩として本ブログページでご紹介したその発声は果たして意味を持っているか?ということを行動の見方(アセスメント)として注目してみてはいかがでしょうか?



【参考文献】

・ 阿部 五月・藤永 保・田中 規子 (2001) 発達初期の理解語彙の獲得(Ⅱ) 家庭訪問調査(1) Human Developmental Research. Vol16

・ 小林 春美・佐々木 正人 (2008) 新・子どもたちの言語獲得 大修館書店

・ 厚生労働省 (2018) 保育所保育指針解説 https://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-11900000-Koyoukintoujidoukateikyoku/0000202211.pdf

・ 大河内 浩人 (2007) 「大河内 浩人・武藤 崇 編著 行動分析 ミネルヴァ図書」

・ Robert L. Koegel・Arnold Rincover・Andrew L. Egel (1982) Educating and Understanding Autistic Children 【監訳: 高木 俊一郎・佐久間 徹 (1985)新しい自閉症児教育ーその理解と指導ー 岩崎学術出版社】

・ Steven C. Hayes・Kirk D. Strosahl・Kelly G. Wilson (2012) Acceptance and Commitment Therapy The Process and Practice of Mindful Change 【邦訳: 武藤 崇・三田村 仰・大月 友 (2014) アクセプタンス&コミットメント・セラピー(ACT)第2版 星和書店】

・ Yuval Noah Harari (2011) SAPIENS:A Brief History of Humankind 【邦訳: 柴田 裕之 (2016)サピエンス全史(上)ー文明の構造と人類の幸福 株式会社河出書房新書】